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いつまでも寒い寒い春が続く。異常気象に加えて世界のあちこちで大地震、火山の爆発が起こり、地球レベルでただならぬ気配が漂う。だからというわけでもないけれど、人生の時間の使い方についていよいよマジメに考えるようになった。自分にとって大切なものは何かということである。案外残された時間は少ないのだ、という実感もある。やってみたいことや行きたい所、会いたい人ーーーいろいろあるけど、あれこれ手を出していると器用貧乏というか、とっ散らかってしまうだけで結局どれもものにならない。おまけに我ながら弱気なことに、以前に比べてこのところぐっと処理能力が低下、集中力にも欠けているような気がする。なので、物事には優先順位をつけて、ひとつずつきちんと向かい合わなければならないと考えるようになってきた。逆にいえば、少しでも気のすすまないことに時間を費やしている余裕はない。人生はもうちょっとシンプルな方がいいんではないかと思う今日この頃。週末はできるかぎり実家で過ごすようにしている。週末に向かって仕事を片付け、土曜日に電車で1時間半の千葉の実家へ帰り、二晩泊まって月曜日の朝東京に戻るのが標準パターン。実家に帰ると見事に頭が切り替わり、たまに仕事を持っていっても、結局手をつけずじまいということがほとんどだ。にわかモバイラーでMACBOOKを開いてみても、せいぜいメールをチェックして終わり。実家での週末ライフ、生活にメリハリがついてよいんだけど、この1週間単位のシフトをこなしていると、呆気にとられるほど時間がびゅんびゅん過ぎていく感じがする。「あれ?このテレビ番組おとといくらい見たばっかりじゃない?」と思うのが、実は1週間経っているのだ。実家では母と一緒に近所の買い物に行ったり、庭仕事を手伝ったり、食事の支度をしたりしてのんびり過ごし、その合間に2階のアトリエで絵を描く時間を作り出すようにしている。日曜画家という言葉があるけれど、毎週日曜ごとに絵を描くというのは、実はかなり大変である。ものを作り出す作業は皆そうであるように、絵を描くのには、その前の準備のセッティング、つまり描き始めるまでのアイドリングに時間がかかる。週に1度となれば尚更だ。なるべくこの準備運動を短縮して描く作業に没頭したいものだが、これがなかなか至難の業。が、そんなことはいってられない。興が乗ろうと乗るまいと、四の五の言わずにさっさと筆を手に取ることが先決だと思うようにしている。絵を描くという表現手段にどんな意味があるのか、果たして描くことで何か答えのようなものが得られるのかどうかも分からない。もしかしたらすべて全くの無駄、徒労に終わるのかもしれない。でも今はとにかく行けるところまで行ってみるしかないのだ。
私にとってもうひとつの大切なもの、ヴェネツィア。この十数年間、旅行といえばイタリア、それもヴェネツィア一辺倒だ。たまにはフィレンツェなんかもちょっと行ってみたい気もするけど、実際には時間的にも経済的にも、ヴェネツィアとその周辺に行くだけで精一杯。優先順位は圧倒的にヴェネツィアであり、なかでもマンマ・ロージィと過ごす時間なのである。ヴェネツィアの家は「もうひとつの実家」と思っているので、千葉の実家と同様ひたすらのんびり。イタリアの友人たちも、私たちがあまりにヴェネツィアに入り浸りなので、はじめのうちはあれこれ言っていたけれど、今では周知の事実となり、半ば呆れながら里帰りのようなものと理解してくれているらしい。マンマ自身も私たちがわざわざヴェネツィアまでやって来て、日中ただぶらぶら(実際は展覧会や美術館巡りしたり充分有意義にやってるんだけどね)してるのをいぶかしく思っているかもしれない。その日に食べたい食材を市場で買い込み、マンマと一緒に台所に立つ。他愛もないおしゃべりをしながら支度をし、いつもの円い小さなテーブルで食事をする。カンナレッジョの小さな家でマンマと過ごすのは、何ものにも代えがたい至福の時なのである。何であれすべて必ず終わりがあると分かっているからこそ、その一瞬一瞬が大切なのだ。自分自身も含めて、大切と思うものをしっかり守りたいと思う。いつだって自分の頭で考えて、自身の価値観でものを判断したいと思う。何もかもが不確定、不透明な世の中、自分の目や耳、心で感じたことを信じるしかないよね。自己中心的な考えのことを、イタリア語でもそのまんまEGO(自己)CENTRISMO(中心主義)という。要はジコチューなんだけど、イタリア語でエゴチェントリズモっていうと、なんだかちょっとカッコいい感じがするではないか。人は本来自由な存在であるはずだ。ここしばらくはEGOCENTRISMOでいこうと思う。 |
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